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清流劇場2019年11月公演『野がも Vildanden』
作:ヘンリック・イプセン
翻訳:毛利三彌
構成・演出:田中孝弥
11月14日(木)〜17日(日) @一心寺シアター倶楽



清流劇場2019年11月公演『野がも Vildanden』
野がもはいつだって底に沈む、できるだけ深くね。
水草や藻にしっかり噛みついて、決して浮き上がってこないんだ。
作:ヘンリック・イプセン
翻訳:毛利三彌
構成・演出:田中孝弥
出演:西田政彦(遊気舎) 髙口真吾 倉増哲州(南森町グラスホッパーズ)
杉江美生 服部桃子 日永貴子 孫高宏(兵庫県立ピッコロ劇団)
藤本栄治(劇団潮流)
音楽・演奏:仙波宏文
スタッフ:
舞台監督:大野亜希 舞台美術:内山勉 舞台美術アシスタント:新井真紀
照明:岩村原太 照明アシスタント:塩見結莉耶 照明オペ:木内ひとみ
音響:廣瀬義昭(㈲ティーアンドクルー)
衣装:田中秀彦(iroNic ediHt DESIGN ORCHESTRA) 衣装アシスタント:加藤沙知
ヘアメイク:島田裕子 ヘアメイク監修:歯朶原諭子(High Shock)
小道具:濱口美也子 振付:東出ますよ 写真:古都栄二(㈲テス・大阪) ビデオ:㈱WAVIC web・制作協力:飯村登史佳 宣伝美術:黒田武志(sandscape) 特別協力:森和雄
協力:㈲ウォーターマインド・イズム・㈱舞夢プロ・バンタンデザイン研究所大阪校
丹下和彦・柏木貴久子・堀内立誉・佐々木治己・川口典成・森岡慶介・居原田晃司
提携:一心寺シアター倶楽
制作:永朋
企画:清流劇場
会場:
一心寺シアター倶楽
〒543-0062 大阪市天王寺区逢阪2-6-13 B1F tel:06-6774-4002
http://isshinji.net/kura/index.html
*各線「天王寺駅」、Osaka Metro谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」、堺筋線「恵美須町駅」より、徒歩約10分。
*お客様用駐車場はございません。お車でお越しの場合は近くのコインパーキングをご利用ください。
公演日程:
2019年
11月14日(木)19時
11月15日(金)14時・19時
11月16日(土)14時(終演後、アフタートークがあります)→出演者はwebで公表します。
11月17日(日)14時
※各回、開演10分前より田中孝弥によります《ビフォアトーク》を行います。
※荒天・自然災害が生じた場合は、劇団ウェブサイトにて随時開催状況に関する情報をお知らせします。
入場料金:日時指定・自由席(ノルウェーにちなんだプレゼント付き)
(公演サポーター様の優先入場。その後、整理券番号順でのご入場となります。)
一般前売券4,300円 当日券4,600円
ペアチケット8,000円
U-22券2,500円(22歳以下の方を対象。要・証明書提示)
シニア券4,000円(65歳以上の方を対象。要・証明書提示)
*ペアチケット・U-22券・シニア券は、前売発売のみとなります。
*開演1時間前より整理券を発行、開場は開演の30分前です。
*小学生以下のお客様はご入場になれません。
*作品上演中のご入場は制限させていただく場合がございます。
*会場内での飲食喫煙・写真撮影は禁止です。
★当日券のお客様は、開演10分前からのご入場となります。
★当日精算券のお客様は、あらかじめお名前とご来場日時・人数・券種(一般・ペア・U-22・シニア)をtessyuu.k@gmail.comにお知らせください。
ご連絡がない場合・日時指定をされない場合は、開演10分前からのご入場、料金は一般前売料金のみのお取り扱いとなります。
作家紹介
ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen 1828年〜1906年)
ノルウェーの劇作家・詩人。ノルウェー南西の港町シェーエンの裕福な家に生まれる。幼くして家は没落、1844年、造船の町グリムスタの薬局の見習いとなって自活。詩を書き始め、1850年、最初の戯曲『カティリーナ』を自費出版するも、売れたのは300部足らず。首都クリスチアニア(現オスロ)に移り、大学を受験するが失敗。第2作『勇士の塚』はクリスチアニア劇場が上演。1851年、西海岸のベルゲンに出来たノルウェー劇場の座付作者兼舞台監督となる。翌年、劇場からコペンハーゲン、ベルリン、ドレスデンの演劇視察に派遣される。1857年、首都のノルウェー劇場芸術監督に就任するも、5年後に劇場が破産、失業する。アル中で自殺未遂したとも言われ、1864年、国の奨学金と友人の援助で逃げるようにローマに移る。絶体絶命の境地で書いた劇詩『ブラン』(1866)で、一躍北欧随一の詩人と見なされ、その後、ドイツとイタリアに住む。1879年の『人形の家』は女性解放運動を進める作品として世界的な反響を呼び、新しいリアリズム劇作家として近代社会劇を確立。1884年『野がも』出版。1891年、27年間の外国生活に終止符を打って祖国に戻り、大歓迎される。晩年作品は象徴性を帯びてくるが、1900年動脈硬化症となり、1906年78歳で没。国葬。
代表的作品として、他に、『ペール・ギュント』『ゆうれい』『ヘッダ・ガブラー』『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』等がある。
あらすじ
物語は、豪商ヴェルレの館でのパーティーから始まります。これは、長く山中の工場で働いていた息子グレーゲルスが戻ってきたことを祝して開かれたもの。豪商仲間に混じって、グレーゲルスの旧友ヤルマール・エクダルも招待されています。ヤルマールはグレーゲルスと旧交を暖め、今は結婚して写真屋を営んでいることを話します。しかし、ヤルマールの結婚した相手が、昔ヴェルレ家に仕えていたギーナだと知ると、グレーゲルスは、全てが父ヴェルレの策略だと確信します。そこをうらぶれた姿の老エクダル(ヤルマールの父)が事務所から出てきて通り過ぎていきます。この老エクダルはかつてヴェルレと山林事業を共同経営していましたが、国有林伐採の不正が発覚し、その罪を一人で背負わされたのでした。以前は森で熊9頭を仕留めたこともある老エクダルでしたが、刑務所から出てきた時には腑抜けとなっていて、今はヴェルレが世話する筆耕(原稿書き)の仕事と、家の屋根裏に飼っている動物たち相手の狩りごっこに満足している有り様です。一方、ヴェルレは罪を免れた後も事業を成功させ、また裏では女中ギーナと愛人関係になっていました。そして時が経ち、ヴェルレは彼女をヤルマールと結婚させ、二人へ経済的援助を行っていました。父ヴェルレと決別することを決意したグレーゲルスは、翌日、貸し部屋があるというヤルマールの家を訪れて、部屋を借ります。ヤルマールとギーナの間には、一人娘ヘドヴィクがいましたが、彼女には遺伝性の視覚障害がありました。それを聞いたグレーゲルスは、同様に視覚を失いつつある父ヴェルレが、何も知らないヤルマールに、妊娠したギーナを押し付けたのではないかと疑い始めます。
ヤルマールの家の屋根裏にいる動物の中には、普通では飼育の困難な野生の鴨がいます。これは、ヴェルレが湖で狩りをした時、撃ち損じて水底に潜ったのを、彼の犬が引き上げてきたもの。それを老エクダルが譲り受けたのでした。この「野がも」をヘドヴィクは可愛がり、老エクダルは狩りの支えとしています。写真業は妻ギーナに任せて発明に精を出していると称するヤルマールも、時に父とこの屋根裏の狩りに精を出します。この一家の様子を見たグレーゲルスは、全くの欺瞞に包まれているヤルマールに真実を知らせるべきだと考えます。この家に同じく下宿している医者のレリングは、それをグレーゲルスの真実病だと言って、真実に耐えられない者を不幸にするだけだと諭しますが、理想主義に凝り固まったグレーゲルスは、ヤルマールに全てを明かしてしまいます。
社会問題を扱う劇作家として名をあげたイプセンの、一つの転機を示した傑作戯曲の上演。ご期待ください。
清流劇場 代表田中孝弥 ご挨拶
『野がも』というタイトルですが、野がもは出てきません。実のところ、野がもがいなくても、物語の根本にさえ問題はありません。では、そんな野がもが何故タイトルになっているのでしょうか。それにはやはり意味があって、「野がも」は何かを象徴しているのです。では何の象徴なのかというと、いくつかの説があります。『イプセンのリアリズム』(毛利三彌著)に依りますと、①野がもを特定の登場人物に結びつける見方。例えば、娘ヘドヴィクと野がもに共通した境遇を重ねるなど。②野がもという存在そのものが、私たち人間全ての象徴であるという見方。現代人の暮らしている状況そのものが、屋根裏で飼育されている野がもと重なり合うという考え方。③グレーゲルスのものの考えに寄り添っていく見方。つまり、野がもは人々が日々の暮らしの中で蓋(ふた)をしている「虚偽(うそ)」の象徴であるという見方。野がもはヤルマールの家の屋根裏にいると言うことになっているだけです。私たちは登場人物たちが語るそれぞれの「野がも」像から、イメージを膨らませていきます。ですから、このようにいろんな見方も出てくるのでしょう。そしてまた、野がもは鏡のような役割を果たしながら、反射し、登場人物の姿とそれぞれの存在の根拠を映し出してもいます。
この『野がも』に取り組むことは、すなわち、鏡の前に立ち、自分自身の本性を見つめることに他なりません。それは目を背けたくなるようなことでもあり、それでいてまた、今日一日を生きていくためにも、いくらかは肯定しなければならないことでもあります。イプセンはこの作品を喜劇と言ったそうです。大いに自分を笑ってやるつもりで、向き合ってみようと思います。